バチェラーの司会者として有名な、謎のイケメン坂東工さん。
坂東工さんは、2020年夏に配信予定のバチェロレッテでも、司会を務めることが明らかになりました。
今回は、坂東工さんの生い立ちについて詳しくご紹介しますね。
夜逃げをしたという噂のある、不遇な過去や、ハリウッドで俳優として活躍したという経歴についても、検証していきますよ。
目次
【バチェラー司会】坂東工の生い立ち! 夜逃げって本当?
まずは、 坂東工さんの生い立ち について、ご説明しますね!
夜逃げをした過去がある、との噂は、本当なんでしょうか?
生まれは徳島
坂東工(ばんどう たくみ)さんは1977年7月25日生まれ。
生まれたのは徳島県 ですが、幼い頃は住むところを転々としたようです。
生まれは徳島ですが、すぐに東京に引っ越しました。その後は横浜に行ったり、また東京に戻ったりと・・・1〜2年住んでは引っ越しを繰り返して、という生活でしたね。
(引用元:THE Keypersonインタビュー)
住むところを転々とした理由は、坂東工さんの発言から、ご両親の不和と、お母さんのお仕事の都合と予想されます。
9歳で夜逃げ?
坂東工さんは、9歳の頃、 夜逃げ同然で東京に引っ越した そうなんです。

坂東工さんが幼い頃、ご両親の仲がとても険悪だったとブログに記しています。
(父親と)母親との関係はいつも険悪で、顔を合わせれば口汚く罵りあっていた。(引用元:坂東工さんブログ)
9歳頃に、ご両親が離婚したため、お母さん側に引き取られることになった坂東工さんは、東京に引っ越しをしたんだそう。
9歳の時に母と兄、姉と夜逃げ同然で家を出て、(父親と)全く連絡を取らないまま、20歳の時にいろいろ手を使って連絡をし、会ったのが最後だった。(引用元:坂東工さんブログ)
夜逃げ同然ということは、かなり悲しい別れ方だったようですね・・・

東京に引っ越してからは、お母さんの会社の社宅に、お兄さんとお姉さんと坂東工さん、そしてお母さんの4人で生活していたようですよ。
11歳から東京で一人暮らし
しかし、坂東工さんが11歳の頃、お兄さんとお姉さんが進学で家を出たタイミングで、お母さんだけ大阪に引っ越してしまいます。
東京の社宅に1人残された坂東工さんは、 1人暮らしすることを余儀なくされます 。

お母さんが東京に坂東工さんを置いて行った理由については、明らかにされていませんが、
小学生の男の子が1人で暮らすのは、大変なことですよね。
生活費を毎月銀行口座に振り込んでもらっていましたが、小学生なので、ATMを使わせてもらうこともできません。
仕方なく、お母さんの知人の方を頼って、アルバイトのようなことをさせてもらい、なんとか食費にあてたようです。
給食もなくて、1日1食の生活を送っていました。・・・小学校に通いながら働いていて、放課後みんなが遊んでいる時に夕刊を配っているわけですよ。それを14・15歳の頃までやって。
(引用元:ニュースサイトしらべぇ インタビュー)
まだ子どもなのに、生きるために必死だったんでしょうね。

しかし、 この状況でも、たくましく生き抜いた坂東工さん!
大学3、4年まで、生活費と学費を自分で稼いで、進学することができたようです。
大学は日本大学へ
アルバイトで学費を貯めた、坂東工さんは、日本大学芸術学部の演劇学科に進学しました。
日芸の演劇学科と言えば、高橋英樹さんや爆笑問題のお2人など、著名な俳優さんやアーティストを多く輩出している、超名門です。
しかし、21歳のころに起業したビジネスがすぐに失敗に終わってしまい、大学にはほとんど通えなかったんだそうです。

アメリカへの熱い想い!
19歳の時、アメリカ旅行に行き、坂東工さんは ニューヨークのオフブロードウェイで観劇 をします。
この観劇が、坂東工さんの、その後の人生を変えました!
舞台のエネルギーに圧倒されて、泣いたり、吐いたりしてしまいました。「なんだ、これは!」という衝撃で、身体が異常な反応をしてしまったのです。・・・「なんだ、この街は!」と思いましたよ。
(引用元:THE Kerperson インタビュー)
舞台の感動だけでなく、ニューヨークという街全体に、すっかり魅了された坂東工さん。
この時の衝撃が、卒業後の坂東工さんを、 渡米へと駆り立てました 。
【バチェラー司会】坂東工の経歴!ハリウッド俳優への道
坂東工さんは、渡米後に ハリウッド俳優 として活躍していたようなので、そこまでに至る経歴をご紹介しますね。
大学卒業後はアメリカへ
「日ごろから、 実感と衝動を大切にしている 」と話す坂東工さん。

19歳のアメリカ旅行で受けた実感は、やがて、「どうしてもあの街に住んでみたい」という衝動に変わりました。
ずっとニューヨークに住んでみたいと思っていました。・・・ただひたすら「あの街に住みたい」という思いがあって、「行っちゃえ!」と決めたのが大学を卒業した年です。
(引用元:THE Keypersonインタビュー)
衝動に突き動かされて、大学卒業後に単身渡米。

しかし、語学も堪能ではなかった坂東工さんは、現地でも日本人のコミュニティに所属するしかなく、「何か違う」と感じ始めます。
悶々とした日々を打開するべく、フットワークの軽い坂東工さんは、アメリカの各地を転々と旅することに。
そんな中、恋人のダンサーとの出会いが、坂東工さんの表現者としての扉を開けるのです。
俳優になったきっかけはダンサーの恋人だった!
アメリカ国内を旅していた坂東工さんは、ニューヨークでのちに恋人となる、 ダンサーの女性に出会います 。
本当に一回一回命を燃やすように踊っていて、彼女を見て初めて表現というものを間近にした感覚になりました。(引用元:ジョイキャリア インタビュー)
またも、強い実感を受けた坂東工さん。
しかし、悲しいことに彼女は、病気で亡くなってしまいます。
旅先で訃報を聞き、心身共にうちのめされた坂東工さん。
ですが、モーテルに貼ってあった演劇学校の生徒募集ポスターを見て、とにかく体を動かそうと入学を決意。
入学後は1日14時間を勉強に費やし、あっという間に1番上のクラスへ食い込みます。

パフォーマンスグループを結成して、ダンスでも表現に挑戦しました。
無事卒業した後は、ニューヨークを拠点に、CMに出演したりなにかと仕事はありました。
ですが、巡ってくるのは使い捨ての「アジア人」の役ばかり。

電気会社のCMに出演した頃の坂東工さんです。
やっと俳優として、お仕事をもらうこともできるようになっても、なかなか名前が売れないことに悩んでいました。
「硫黄島からの手紙」が転機に
そんな時、クリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」の、日本人オーディションの存在を知りった坂東工さん。
背水の陣で挑むことに!
「自分が使い捨てされてしまう」という感覚かな……その状況を変えなければいけないと思って、いったんそういう仕事はぜんぶ辞めることにしました。・・・それで、この1本に賭けようと決めたのが『硫黄島からの手紙』です。(引用元:THE Kerperson インタビュー)
そして、坂東工さんは 200人ぐらいの応募者の中から、見事に重要な役を射止めます 。
こんなに大勢の参加者の中から、勝ち残ることができたのは、なぜなんでしょうか?
板東工さんは、オーディションにかける姿勢を、次のように話しています。
なんというか、全員が敵という捉え方。ナンバーワンにならなければダメで「0か100か」という世界ですから。・・・そんな世界で、ブラフでもなんでもいいから「あぁ、それならやれますよ」と言って前に出ていく度胸ですね。(THE Kerperson インタビュー)

持ち前の度胸で、「硫黄島からの手紙」のオーディションを見事に突破した、坂東工さん。
「硫黄島からの手紙」では、谷田陸軍大尉の役を演じることになりました!

補足
谷田陸軍大尉は二宮和也さんが演じる、西郷が所属する部隊の中隊長。硫黄島の激戦下で部下に自決を強いて、自らも自決を選ぶという壮絶なキャラクター。
ここまでお読みの方はお分かりと思いますが、坂東工さんはとっても感受性が豊かな方でしたよね。
最後のシーンを撮影した後、坂東工さんは役にのめり込みすぎたため、言語障害に陥ってしまいます。

また、「硫黄島からの手紙」以降、ハリウッドで次の目標も見つけられず、2007年に帰国を決意。
そして帰国を決意したきっかけは、「硫黄島からの手紙」で共演した俳優、加瀬亮さんの存在もありました。
岩でもありながら台風でもあるというか、静と動のエネルギーに魅せられてしまうというか。こんな人が日本にいるのなら、今僕はアメリカにいることはない、日本に帰ろうと決断しました。(引用元:キャリアジョイ インタビュー)

アメリカで燃え尽きた坂東工さんでしたが、帰国後は、新たな活躍の場に進出するんです!
【バチェラー司会】坂東工の帰国後はアーティスト!
帰国後、再び俳優としてオーディションに明け暮れる日々に戻った坂東工さん。
ある日、雑貨屋さんに入ったところ、店主に「その腰巻きいいね、私にも作って」と声をかけられます。
その時していた腰巻は、実は坂東工さん手作りの革製品。


こちらの写真は、20代のころに坂東工さんが制作したものです。
この雑貨屋での出会いがきっかけとなり、革製品の制作や、ペンダントの制作を始めます。
坂東工さんは、アーティストとしてデビューしたきっかけを、次のように話しています。
アーティストとしてデビューしたのが、2011年3月の3日だったんですけど、それから震災があって・・・僕はボランティアに行ったんですけど、被災地で起こっていることが衝撃だったんです。そこではじめてアート作品というものを作ってみたんです。(引用元:https://youtu.be/7Cua5rYatXA)
震災のボランティア経験で受けた衝撃をもとに、得意な革製品のアート作品を作り始めた坂東工さん。
初めての個展を開いたことろ、なんと2,000人を動員!
さらに、坂東工さんの個展を見にきた、衣装美術家の黒澤和子さんに映画の衣装を作るべきだ、と助言されます。
そして、映画「真田十勇士」の衣装を作ることに。

しかも、この衣装はアジアンフィルムアワード衣装美術賞にノミネートされました。
大河ドラマ「西郷どん」では、「硫黄島からの手紙」で共演した、渡辺謙さんの衣装を制作。

現在も多忙な坂東工さんですが、アーティストとしてのご自分をとっても大切にしている印象です。


さらに、オンライン美術館の立ち上げと運営など、 現在は着々とアートの方面へ、活躍の場を広げている 坂東工さん。
これからは、アート方面での活躍も期待できそうですね。
まとめ
今回は、バチェラーに続き、バチェロレッテでも司会を務める、 坂東工さんの生い立ち について詳しくご紹介してきました。
ご両親の離婚のため、夜逃げ同然で引っ越しをして、小学生で1人暮らしを強いられるなど、壮絶な過去をお持ちでしたね。
ハリウッドで俳優として活躍 したのちは、帰国してアーティストとしても活躍していて、多才な坂東工さん。
ある意味、坂東工さんは、バチェロレッテの参加者よりも、魅力的かもしれませんね!
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